Nishitake hiroki
べ

Action 〜 be born 〜

生まれるという行為

 

サンドバック

Action 〜 red bag 〜

皮膚がうっ血することに興味がでてきた。血流が停滞し、身体の表面ににじみ出てくるこの現象は血液を一人称でこちらに呼びかけてくる。
「僕はあなたの血液です、僕はここに留まります。あなたの意思とは関係なく、僕はあなたの体の中で停滞しています。そしてまた、あなたの体を駆け巡ります。」

自分の意志とは関係なく、血液は止まり、また流れ出す。どうしようもない流れが私の体の中にも存在した。

 

「Action 〜 red bag 〜」

2012
サンドバック、ペンキ、石膏、DVD映像
1700×500×500mm

 

 

かみ

Action 〜 snow mountain 〜

部屋で遭難するためには、まず充満させないといけないですね。
洞窟で寝るためには、ますは穴を掘らないといけないですね。
入るためにはまずなにがしかのアクションを起こさないとないといけないですよね。

 

作品を見るのではなく、作品と一体化し、目の前ではなく、身の周りにある作品を感じてほしい。そのために、美しいギャラリー、鑑賞するギャラリーは排除しなければなりませんでした。何も見れない、入れない、そんな空間が必要でした。くしゃくしゃにされた紙を私はせっせと広げ、積み重ねました。重ねるだけで、その透明な紙は雪のように降り積もっていきました。

雪のように降り積もった紙は、大きな山になり、ギャラリーの入口を塞ぎます。鑑賞者は少しの勇気を持って、この雪山に一歩を踏み出さなければならなくなりました。ガサガサ、くしゃくしゃと音を立ててその雪は崩れてゆく。時には雪崩のように崩れ落ち、勇気を持った鑑賞者の行動と体温によって、日に日にかさは減っていきました。最初に足を踏み入れた鑑賞者は、少しの冒険をしただろうし、最後に足を踏み入れた鑑賞者は、すこしもの悲しさを感じたかもしれない。
でもこの作品は、見るのではなく感じる為に降り積もったものだから、それは仕方がありませんでした。

 

 

「Action 〜 snow mountain 〜」

Action 〜 縮んで伸びて穴を掘る展 Florist-Gallery N / 愛知 / 2012
トレーシングペーパー、DVD映像
サイズ可変

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HOT SKIN

体温を使い200kgのラードを溶かす。バスタブの中ではその目標に向かい、他人と他人がお互いの体温を求め合い、独自のコミュニケーションを発生させる。いつしか体温で溶かされたラードは、全てが2人の体温と同化し、一つの存在として提示される。

 

「HOT SKIN」

SIFT展 Florist-Gallery N / 愛知 / 2009
バスタブ、ラード、DVD映像
1200×1700×700mm

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積まれた人体

私の今回のテーマは、「無」という事である。これは芸術鑑賞領域の上で特に強く働く性質だが、むという構造の中には、見る、感じるといった意識を活発にする性質がある。その意識は普段の生活の中での、見る、感じるとはまったく違う性質のものである。現代芸術は素材的にも表現方法的にも大きく解放され、それぞれのカテゴリー(彫刻、絵画など)の隔たりが今はとても薄くなってきているように思える。そればかりか、現代性の特徴である、一時的なもの、うつろいやすいもの、偶然的なものが色濃くにじみ出ていることが多い。現代の批判をするつもりはないが、私はそれぞれの分野がもつ造形言語を継承することの重要性が今は重要なのではないかと考える。彫刻の分野であれば、量感、立体感、質感、構造感、生命感や、モデリング、カービングなどの技法的言語などである。私が今まで作品を展示して多く感じることは、作品の解釈というものはそれぞれの鑑賞者が行うということである。またその解釈は鑑賞者が育った時代、環境に大きく左右され、その解釈が良いものにしろ悪いものにしろ、解釈の多様性は限りないものである。しかしその解釈の多様性を通してもなお作品が統一性を保つことが重要であると私は考える。そうでなければその作品は、一時的なもの、うつろいやすいものになり、かわりゆく歴史の中で一時的な流行になり、芸術というものに対しての意味がなくなってしまう。私の中での作品というものは、その様な意味で鑑賞者の関与が不可欠である。そしてもう一つ重要なのは、前に述べたように、解釈の多様性を通してもなお作品が統一性を保つことである。今回のテーマである「無」という考えは、彫刻の造形言語を「無」にしたいということから始まった。前に私は彫刻の造形言語の継承が重要だと述べたが、そのような造形言語を無くしてみてはどうだとも考えた。それは私が考える「無」という性質のうえで、量感、立体感、質感、構造感、生命感を違った認識で強く意識させられるのではないかと考えたからである。これらの考えから生まれた作品が「積まれた人体」である。人体が積まれているという状況はある記号を示す。それはアウシュヴィッツや長崎、広島の原爆被害、人体が積まれるといった状況はそういった「死」という記号である。特に私は原爆で黒こげになった人体の写真や、被爆者の体験を多く聴く機会があったが、それはただ人の形をした単なる人形のようで、その目の前にある写真が同じ人間であるという実感はなかなかわかなかった。そしてその周りの建物も黒く焼かれ、物と人との区別は難しい物であった。そういった人体の写真や資料を読み返している時期に、私は素材として羊毛という繊維を使っていた。その羊毛が固まった表面と、物となった人体がリンクし、一体一体を生命観の無い人体として表現し、それらの人体が積み重なった状態を提示することで大きな「死」というイメージを記号的に示そうと考えた。この「積まれた人体」では、造形言語を「無」という性質をもって意識的に継承し、その「無」となった要素を積み上げることで一つの統一した意味を発生させたかった。

「積まれた人体」

愛知県立芸術大学卒業制作展 愛知県美術館 / 愛知 / 2008
羊毛、膠
1000×2000×2000mm